竜馬を訪ねて 京都探訪


            二度も歴史に登場した寺田屋

修学旅行のやり直し?
今回の旅行の目的の一つに修学旅行のやり直しということがあった。中3になった息子yasushi2年生の時の修学旅行で京都に行ったが、班別自由行動の時、アクシデントのため思うように見学ができなかったそうだ。心残りだと言うことに応えるとともに、自分たちも京都で大人の修学旅行をしたいと考えた夫婦合わせた3人の意見が一致。814日にその予定を敢行することになった。
京都と言えば、794年の平安京遷都から現在にいたるまで、政治や文化の中心として栄えてきた。そのため、世界遺産や国宝の宝庫であり、また坂本竜馬が活動の拠点としていたことも人気を支えている。
家族はみな「にわか歴史愛好家」となり、まず初めに、坂本竜馬を中心とした歴史探訪を始めた。




まず、訪れたのが伏見区ある寺田屋である。
京都は非常に水に恵まれたところだったということから語らなければならない。京都盆地の地下に眠る岩盤の下には琵琶湖の何倍もの豊かな水が蓄えられている。その豊かな水資源を利用して水上交通が発達。物資を運んだり、船も多く存在した。寺田屋はその中の薩摩藩の定宿だった。
186639日、薩長同盟の会談の取り付けを行った坂本竜馬を、伏見奉行の捕り方が襲ったという事件が世に言う寺田屋事件だ。

寺田屋の中に入ってみました。
             
薩摩人として潜んでいた竜馬を深夜2時ごろ、50人ほどの捕り方が宿を取り囲む。いち早く異変に気付いたお龍が風呂からあがり、竜馬とその用心棒である長州藩の三吉慎蔵に知らせた。やがて、捕り方に囲まれ銃で応戦するが竜馬自身もこの戦いで手の親指を負傷してしまう。その後、竜馬は屋根伝いに逃げ材木小屋に隠れる。慎蔵は薩摩藩に助けを求め、薩摩藩は川船を出して竜馬を助ける。これが寺田屋事件の概要だ。

お龍さんが入っていたお風呂が再現してありました
その後、京都を脱出した竜馬は、鹿児島の霧島にお龍と湯治に出かける。これがいわゆる日本で初めての新婚旅行と呼ばれることになる。
この寺田屋は1962年に寺田屋騒動という事件も起こっている。薩摩藩士島津久光が急進的な薩摩藩士の動きを鎮撫したという事件。この当時の京都の街では「天誅」という名目でたくさんの血なまぐさい事件が多発していた。こんな中、坂本竜馬は銃を持っていたとはいえ、50人以上もの相手をよくもまあ2人で迎え撃って逃げ切れたものだと感心してしまった。
寺田屋にとっては災難に違いないが、実はこの寺田屋は、その当時の建物ではなく、建て替えられたものである説が有力だとか。当時の建物は鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったらしいが、その真偽はいかに・・・。
寺田屋の船着き場です
その後、坂本竜馬は、寺田屋から活動の拠点を三条河原の材木商「酢屋」に移した。その後、幕府から知られてしまったので今度は醤油屋「近江屋」の2階に移った。大政奉還の成立を見届けた18671210日(慶応31115日)、近江屋で暗殺されてしまう。

寺田屋の定宿がこの酢屋です
竜馬が再び襲われたこの日は、寒い日だったという。犯人は諸説あるが、京都見回組のものによるという説が有力である。霊山歴史館では、竜馬殺害に使われたと言われている刀が展示されている。

近江屋の跡は何とコンビニになっていました
もし、坂本竜馬が生きていたら、明治維新はどのように展開していっただろう。考えてもしょうがないことだと思うが、本当に惜しい人物を亡くしたと思う。

坂本竜馬の墓です 中岡慎太郎の墓もとなりです。
惜しい人と言えば、歴史上の人物でもう1人思い浮かべることができる。「敵は本能寺にあり」と言う側近の明智光秀に攻められて命を落とした戦国武将織田信長だ。

新撰組の名を轟かせた池田屋事件の池田屋の跡は居酒屋になっていました。
これらの歴史の足跡が、京都の街のど真ん中にあることが驚きだ。本能寺は京都市役所の斜向かいにあるし、竜馬が暗殺された近江屋は今はコンビニに、新撰組の名を天下にとどろかせた池田屋事件の池田屋は今は飲食店になっている。「新しい」と「古い」が混在し、不思議な魅力のオーラを放つ京都。次回は時代をもう少しさかのぼり、神社などを紹介したいと思う。

「敵は本能寺にあり」の本能寺です。
織田信長の墓です。その子孫の某スケート選手もお参りに来られたそうです。

これが織田信長の墓です。


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