12/29偶然か必然かそれが問題だ 手打

2003年も暮れようとしている。この1年は一体どんな年だったのだろう。いいことはあまり頭に浮かばない。世界中で戦争やテロに明け暮れた1年だったのではないか。イラク戦争はまた新たなテロの拡大再生産を生み出した。アメリカの属国である日本は、いや、扇動者小泉は、あたかも日本国民の大多数が願っているかのように自衛隊のイラク派兵を実行した。自衛隊は非戦闘地域における非軍事活動だといくら言っても、イラク国民にとっては、ジャパニーズ・アーミーが来たとしか思っていないだろう。

日本にとって一体どんな意味があるのだろう。高齢化社会を迎え年金生活を送っている高齢者の方々に多大な負担を強いた来年度国の予算。イラク戦争の意味は、かつて不幸な戦争を身をもって体験した世代に再び「ほしがりません勝つまでは」の生活をさせることになったのだ。それどころか小泉は、イラク派兵の説明のために憲法の前文を朗読するという暴挙に出た。日本はこのままでは確実に戦争への道をたどるであろうとそんな予感をさせるに十分な暗い1年だった。戦争をせずに世界中が平和になる日はいつ訪れるのであろう。

平和だからこそ魚釣りができる。自然と一体になろうとする天人合一の思想をまっとうできる釣り。魚拓サイズを釣るという大きな目標を持って臨んだ2003年のシーズンだったが、予想通り貧果に終わるような気がする。しかし、貧果に終われば終わるほど私の心は双曲線のように豊かになっていく。自然に対して畏敬の念を持つと同時に自分の技のふがいなさを思い知らせてくれる魚族に対して感謝の心さえ感じている。

冬休みはしっかり宿題をするようにと子どもたちに言ってわかれた後、西郷先生から宿題を出されてしまった。「君らは教師のくせに正義とか罪とか罰とは何かとか、責任とは何かとか考えていない。子どもの前に立つならそのことはしっかり考えなくちゃいかんよ。」耳が痛い言葉だ。宿題の概要はこうである。サルトルの短編に次のようなものがある。時代は第2次世界大戦中。市民の反ファシズムの活動家がゲシュタポに捕らえられた。「お前たちのリーダーの居場所を教えろ。代わりに命は助けてやる。」そこで、組織に忠実な男は、架空の場所にいるはずだとうそを言った。ところが、しばらくしてゲシュタポは「お前を解放する。」なぜだ。すると、まもなくうそを言った架空の場所に本当にリーダーがいたことがわかったのだ。彼は悩む。偶然だが結果としてリーダーはつかまり処刑された。私は責任を取るべきなのであろうか。この物語から偶然とは何か、そして、責任とは何かということを考えてくるようにということだった。だれか教えて頂戴。チェーホフはこう言った。「科学は問いを解決するが、文学は読者に向けて問いを提示する。」そこで、その問いを解決するべく、今年の釣り納めに行くことにした。私の釣りは一体何か。その意味が問われているのだ。はたして、私の釣りは偶然お魚サンがハリにかかってくれるのか、それとも、私が試行錯誤の上に釣っているのか。偶然か必然かそれが問題なのだ。

さて、2003年の釣りを総括する場所として下甑の手打に照準をあわせた。釣り雑誌「南の釣り」を見ていると、このような文字がたちあがってきたのである。「20周年感謝価格。下甑手打8,000円」下甑、中甑の渡船料金は10,000円が相場だ。甑は憧れの場所であるが、渡船料金が高いという事実がある。しかし、8,000円は安い。この思いきった価格破壊に私の脳細胞も破壊され、気がつくとueno氏へ電話を入れていた。4人の子持ちで数十万のボーナスカットをくらったueno氏との利害が一致。

12月29日、小潮初日。今年もことごとく外れた天気予報は、珍しく晴れマークであった。26日から日本中に寒波がはいり、東京では初雪が観測された。九州でもその影響で西海は波高3メートルから4メートルを記録していた。このところ好調な甑の釣果。この時化でお魚さんがおなかをすかせて、時化後にわれわれが食わせるという寸法だ。文芸研から帰ってきて翌日餅つきをして子どもたちと遊んでいるとあっという間に夕方になった。体にアドレナリンが徐々に分泌されていった。この日の電話いかんでは、これからすぐに出発しなければならないからだ。

「11時出航です。」やっぱり。串木野港からだと逆算すると午後6時半くらいには人吉を出発しなければならない。慌ててueno氏へ電話し道具をまとめ、ナガトモロンフレでえさを買い上野号で3号線を下った。「おらもうえさばまぜとったばい。」ueno氏は私以上にアドレナリンが大量分泌されているようだった。朝からえさを買い自宅で解凍してもう集魚材を混ぜてしまったそうだ。しかも、夜釣り用の仕掛けも準備ずみ。暖を取るために用務員さんに頼み込み、いっと缶をドリルで穴をあけてもらったたきものいれを。さらに、中球磨木材からトラック1台分の薪を購入していた。「最高のクヌギの木が手に入ったバイ。」満足そうにこの経過を話してくれた。魚釣りはこうも大の大人を夢中にさせるのだ。我々のはやる気持ちは、出航時間より1時間以上も早く港に到着させていた。

我々より早く港で釣り談義をしている集団がいた。船釣りの釣好でこれから草垣群島にいくとのこと。凪の日で3時間の行程だそうだ。14、5キロのカンパチがでるよ。聞いただけでも武者震いがしてくる。否応がなしにも我々のモチベーションは高まった。しばらくして船長がやってきた。なんと杖をついている。足が一本ないのだ。しかし、その器用な身のこなしは、長年海で生きてきた男の威厳を放っていた。その船の名は、「Fナポレオン隼」。なんと切れ味のいい言葉だろう。「さあ、行きましょうかね。」上條恒彦にそっくりな船長は客に笑顔で応えてくれる。隼と一騎うちを演じたガンの残雪を自然の中に返した大造じいさんと重なった。「昨日も型がよかったですよ。」その傍らに女房とおぼしき女性が釣り客を応対していた。その時、ヘレン=ケラーの言葉が浮かんだ。「障害は不便ではありますが、不幸ではありません。」

仕事納めが終わっている状況のわりには少ない客を乗せて、隼は定刻より15分早い午後10時45分に串木野港を出航した。晴れ時々曇り、降水確率午前中0%午後20%。空を見上げると満天の星が輝いている。偶然なのか必然なのか天気は我々に絶好の夜釣りの条件を整えてくれた。「荷物を上げてください。」船長の声は、ポイントに近づいたことを教えてくれた。

暗闇の中だが半月の月明かりで下甑の島影が見えている。いよいよだな。唇をなめながら臨戦体制を取る。エンジン音が緩やかになった。「来た!」ライトが当てられているところを見ると比較的大きな磯が突如として現れた。いきなり船長の声が。「鎌田さん。」トップバッターは我々だった。uenoさんと速やかに上礁を開始した。「裏のワンドで。」そう一言言い残して隼は去っていった。我々2人と宇治群島をホームグランドにしているおっさん1人の計3人にはあまりにも広すぎる磯に乗った。

ヘッドライトをつけてあたりを観察。右に大きな断崖。左にここと同じような磯が見える。どこかで見た風景だな。そして、少しいったところでタイドプールが。作者はここでやっとそこが下甑を代表する名礁「中のオサン瀬」であることに気づいた。地のオサン瀬、中のオサン瀬、沖のオサン瀬が集まるこの一帯は、潮通しがよく、手打の中でも数型ともにA級。口太でも尾長でも実績の高いところだ。

船長は、偶然か必然か始めての客である我々に最高の場所を提供してくれたことになる。この船長の思いに応えるべく今日こそは絶対に釣らなくては。そう自分に言い聞かせて夜釣りの準備に入った。仕掛けは、夏の夜釣りと同じバージョン。10号の道糸、8号のハリス。リールは、6,500番。1.5号の電気ウキをつけ、船長の言うとおりにワンドで釣りを開始。uenoさんは、「瀬の多うしてやっとられん。」とワンドより東側の釣りよい場所で開始。私は、足場が悪く瀬が点在して取りこみに苦労するであろう場所での釣りを決断した。夜はだめでも夜が明けてからの釣りにかけるためだ。案の定、夜釣りは不発。キンメダイに似たえさとりの猛攻でジ・エンド。ueno氏も30センチのシブダイのみの釣果となった。

夜が明けた。いよいよ戦闘開始だ。夜のうちから撒き餌をしているのですぐに答えが出るはずだ。いつものように、1.5号の竿に2号の道糸。釣研のトーナメント弾丸0号のウキに潮受けゴムを装着。2.5号のハリスを直結にして、ひねくれグレ5号のハリをむすんだ。ワンドの中は波穏やかで軽い仕掛けでも十分な条件が整っていた。撒き餌をしても魚が見えなかったので、まずは3ヒロのウキ下でトライ。

数投してもえさが取られなかったので、ウキ下を竿一本にすると、ウキがゆっくりと海中に消えていった。ゆっくりと道糸を送りこみ慎重に合わせるとぐんと竿にのってきた。まぎれもなくクロの引きだ。800gくらいのひきか。新しいリールトライソの活躍だ。急な魚の突っ込みをレバーブレーキで相撲で言うと「いなす」。こういうやりとりを実現してくれる優れもののリールでやっと釣りができる。そうこうしているうちにいきなりのバラシ。えっ、何で。2.5号のハリスが簡単に飛ぶはずは。仕掛けをチェックするとハリはずれ。食いが浅かったかな。

ウキ下を20センチ浅くして、さっきと同じ場所に仕掛けを入れて再びトライ。同じようなウキの消しこみが。合わせるとガツンと同じような手応え。今度はいただきだ。瀬だらけの場所なので、強引にやり取りをするもまたまたバラシ。ええかげんにせろよ。チェックすると同じくハリはずれ。刺さりは山ほどあるハリの中でもトップクラスなのに何で。前回学んだ魚の気持ちになることをここで実行。どんなに人間がいいハリだと思っても魚が食ってくれなくては意味がない。ハリを競技ヴィトムの5号に替えてみた。またまた、ウキが夜空に光る人口衛星のような速さでゆっくりと海中に消えていった。ずんと竿に期待していた重量感が襲った。釣り座の左手前に瀬があり、まずそこに突っ込んだ。いなして強引に竿を立てて2.5号の太仕掛けにものをいわせて糸を巻きその瀬をかわした。こんどは、右手前の瀬に急降下を開始。竿を寝かせてためる。すると、わりとあっさり浮いてきた。口太だな。浮いてきた魚はやはり口太だった。

30センチくらいの引きかなと思っていたが、もっと大きかった。無事に玉入れ成功。上がってきたメジナちゃんは38センチの食べごろサイズ。ドンゴロスに入れて時計を見ると7時半。ハリを少し飲んでいたのでウキ下を更に20センチ浅くしてトライ。すると2連続。今度は、39センチの口太。入れ食いかと喜んだとたんあたりがなくなった。ウキ下を3ヒロ、2ヒロと浅くしたり、竿一本半くらいまで深くした。深くするとイスズミくんやオジサンがつれ、慌てて浅くした。いきなり活性が落ちたのだ。えさ取りさえ見えない状況になった。

そういえば魚の色が黒っぽく元気がない色だった。裏の地のオサン瀬との水道側で釣っているuenoサンと宇治のおっさんの状況を覗きに行った。ueno氏4枚、おっさん2枚。10時の瀬替わりでやってきた釣りクラに入っていそうなおっさんが40オーバーのクロを1枚という状況だった。私はワンドに見切りをつけ、そこで釣らせてもらう。潮が速いのでウキを2Bに替え、G5からG7のジンタンをハリスに3段打ちして流していると、本流の引かれ潮の壁で強い当たりが。しかし、ハリはずれ。まったく同じ時間にueno氏もばらしていた。「太かったバイ。」とuenoサンはハリスを3号に上げていた。

しかし、ここでも当たりは遠のいた。下げ潮になれば必ずチャンスはくると自分を奮い立たせていたところに急に天候が荒れて来た。時折突風と伴った西風が容赦なく吹きつけ、白波が立ち始めていた。あっという間にあれだけ静かだったワンドがサラシで真っ白に。午前11時、潮が満潮にさしかかったところで急を告げるナポレオン隼がやってきた。「撤収!」このまま釣りを続けると危険と判断した船長は、各瀬を回り客を次々に乗せていった。いわゆる緊急撤収である。釣りを始めてから初めて味わう経験だ。道具も撒き餌もそのまま船に積み込んだ。


天候が急変 緊急回収
1時間半の行程の後、串木野港に到着。不完全燃焼の釣行となった。この日の釣果は、全体的にあまりよくなかった。瀬口鼻のところで30センチクラスを8枚上げたのが竿頭。中のオサンの我々が少しで後は?みんなそそくさと港から立ち去っていった。「ワンドで2枚。おかしいな。」首をかしげる大造じいさん。

「4、5日前はあそこで3人で120枚あがったよ。」いつものお決まりのパターンの台詞が私の自尊心をえぐった。「タナは50センチかな。」何、50センチ。まるで枕崎釣法ではありませんか。でもね撒き餌をしても魚が見えなかったんですけどと言いかけたがやめた。悔しかったら釣ってみろ。こんな言葉をもう1人の自分が言い放っていた。

今日の天気と釣果。正に私の2003年の成績を象徴するかのような釣り納めとなった。偶然か必然か私自身それがわからない。この問題が解決するまで私は釣りつづけるであろう。しかし、その問題は解決されてもまた新たな問題が生み出されることになる。問いと解決の連鎖・連環は、釣り人を今日もトランス状態へと導いている。さあ、来年はいい年でありますように。さるどしでなくメジナ年にしたいなとおやじギャグを飛ばしながら早くも2004年の初釣りを計画するのであった。


2003年釣り納めのクロ 38 39センチ


メジナのお造り、メジナチラシ寿司、メジナの握り寿司

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