11/21 魚のわく海 水俣 恋路島

「がんばんらんちゃよかあ。」杉本さんの声が、自分の心に沁みわたる。11月20日〜21日に組合の書記長会があり、研修の一環として水俣病資料館を訪れた時のことである。水俣芦北支部の公害サークルの方々の紹介で水俣病語り部の杉本栄子さんの話を聴いた。

「あんたたちゃあ、何か悩みがあってここに来たとやろ。がんばらんちゃよかあ。」もうすぐ人事異動の仕事が待っている悩み多き私たちの心の中を見透かされたようだ。本当にすごい話だった。話は、まず水俣の美しく豊穣な海の形象から始まった。

「水俣はですな、魚のわく海ちゅうてですな。そりゃあ魚の多かところですたい。」リアス式海岸を持つ水俣の海。複雑に入りくんだ所には必ずと言っていいほど小さな川が流れている。良い海には良い水が必要。行き着く先は、いい森があると言うことになる。

かつて、加藤清正が海の恵みで食べ物に困らないようにとこの水俣の地にクロマツを植えさせたそうだ。「頭のいい人肩書きのある人たちはですな。言葉がじょうずじゃっでえ、弱いものいじめばすっとです。」チッソ水俣はメチル水銀を含んだ排水を「魚のわく海」水俣に流したのだ。また、開発は水俣のクロマツをほとんど壊滅させた。

まずはじめに、魚の大量死から始まった。そして、水鳥たちの変死。やがて、漁具をネズミから守るためにどこの網元の家でも家族同様に大切にしていた猫たちが狂ったように死に始めた。そして、ついには魚が主食というほどたくさんたべていた水俣の方々にもけいれんなどの症状が出始めた。

杉本さんのお母さんにも症状が出始め、病院でマンガン病と診断される。当時、この奇病はうつる病気とされ、ある意味で病気以上に恐ろしい差別が始まった。まず、始めに差別したのは親戚だったそうだ。「なぜ、病院へ行ったんだ。」と恐ろしい顔で怒鳴られたそうだ。他の家でも水俣病にかかった人がいるはずだが、家の中に封じ込まれることになる。こうして、もやいの心でつながっていた小さな漁師の村はずたずたにされた。

異変に気づいていた「頭のいい人達」は百間から流していた排水を今度は水俣川方面に新たに排水溝をつくり垂れ流した。これで水俣より北の八代などにも被害が広がった。

もう一つの恐ろしい差別は水俣病が地方病として報道されたことである。阿賀野川の汚染にもかかわらず新潟水俣病と言われるほど差別心は全国に広がった。水俣に生まれた方々が長い間自分の出身地を明かすことを躊躇しなければならない状況が続いた。

「私は、私をいじめて死んでいった人たちのためにも語り部になることを決めたとです。」重い言葉だ。水俣病の教訓を学ぶというのは、公害そのものの学習だけでなく、人としてどう生きるのかということを考えることなんだと教えられた。資料館を出ると、美しい海が私を待っていてくれた。海が私を呼んでいるような気がした。


親水公園から恋路島を臨む

早速、水俣市の中川釣具店に飛び込んだ。「今、チヌなら百間港がいいですよ。恋路島は手のひらくらいのクロが釣れます。」瀬渡しがあるというので、フェリー乗り場の隣からでる西山丸に連絡を取ると、12時に出るとのこと。平成9年まではしきり網に囲まれていた恋路島で「魚のわく海」を堪能することにした。


午前中の客と入れ替わり

しかしでかい船だ。御所浦や14人そろえば甑まで行くそうだ。午前中で釣りを終える客を入れかわることに。乗せられた瀬は北からの強風を避けられる「シズミ」。荷物を入れ替えながら「どうでしたか?」と状況を聴いてみた。「手のひらのクロやね。運が良ければ足裏サイズが釣れるよ。チヌはだめだね。」と教えてくれた。

現在干潮間際で底が見えているほど浅い。30メートルほど遠投してやっと水深5メートル。潮回りは最悪の長潮。磯と言っても人間の生活圏にほど近い場所であるため、プレッシャーはきついはず。竿はダイコーの強豪1号ー53。ハリスは1.25号。仕掛けは、感度重視で遠矢グレZF00号の全遊動。釣り始めるもいるわいるわ大量の餌取り。スズメダイ、コッパなどが見える。2,30メートル遠投しても餌取りで海の色が変わる有様だった。これは、満潮を迎える夕まずめがチャンスかなと


クサフグくんの歓迎

しばらくの間、餌取り魚君達と遊ぶことにした。

最初に歓迎してくれたのは、クサフグくん。2匹連続でお目見えだ。体をつかむとグーグーとなく。海へお帰り願った。餌だけがとられる状態が続き、タナは50センチまでに浅くした。

すると、鋭いウキの消し込みが。合わせると初めてまともな魚の引きを感じた。鋭く下に突っ込もうとするその魚は今度は横走りを始めた。おかしいぞ。メジナではないな。やがて細長い魚体を確認してガックリ。ボラだった。これも海へさようなら。

3時頃から今度はチヌ狙いに切り替えた。釣研のツインセンサーG2でやや深ダナを狙う。すると、心地よいウキの消し込み。今度遊んでくれたのは、20センチにみたない小鯛(チャリコ)たち。状況が変わらないので情報を信じて、また、ウキを遠矢グレZFに替えた。潮が満ちてきてシズミの名の通り釣り座がだんだん狭くなっていった。そして、目立った釣果のないまま午後4時を迎えていた。

餌取りの動きをずっと観察していたが、あまり沖へ出なくなった。同時にエサは残って帰ってくるようになった。「これはチャンスかも」西日で海面がギラつきウキの視認ができなくなりつつあるなか、午後4時半頃ウキを見失ってしまった。「あれっ、どこへいったんかな。」探すが見つからない。もしかして消し込んだかと合わせてみると竿先にもぞもぞと魚信が伝わり、リールを巻いていくとギューンと竿に乗ってきた。間違いないクロだ。30オーバーは間違いない。

手前は根だらけなので急いで巻かなくちゃ。かなり遠投していたので中々手前によってこない。そのうちギューンと再びつっこみを見せると、いきなり竿が放物線から解放された。納竿30分前の痛恨のバラシ。道糸がシズミ瀬にふれてしまったらしい。遠矢グレが制御を失いゆらゆらと自由の旅を始めていた。私より魚の方が1枚上だった。後30分。魚がいることが分かったので、最後まで諦めずにぎりぎりまで粘ることにした。遠矢グレBBで最後の勝負。

午後4時45分に再び遠矢ウキが視界から消えた。合わせるとやはりクロらしい引きだ。今度はさっきよりかなりかわいい引きだ。あがってきたのは、22,3センチのクロだった。よかった。坊主を逃れた。1ヒロくらいのタナで


夕まずめにやっとで遊んでくれたグレ

食ったようだ。もう少しはやく出てきてくれれば良かったのに。恥ずかしがり屋なんだね。釣れてくれてありがとう。海へお帰り願った。

魚を放流するとタイミング良く西山丸が迎えに来てくれた。気がつくと、「シズミ」の名の通り今まさに海の中へ消えようとしていた。楽しかったな。水俣の魚のわく海を心ゆくまで堪能できたことに感謝した。「どうでしたか。」という船長の言葉に、「1発でかいのをやらかしちゃいました。」と答えた。「釣れることもあるんですよ。」「ですね、魚はいますね。」

こんな会話を楽しみながら港へ戻った。海に生きる懐の深い船長が「魚持って帰りませんか?」とチヌを2枚くれた。12時渡礁というわがままな客に魚のプレゼントまでしてくれた船長に深々礼を言って別れた。魚のわく海、そして、もやいの心のわく水俣に元気をもらって港を後にしたのだった。


さようなら 恋路島シズミ

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