5/5 大人が子どもになる日〜こどもの日〜 豊予海峡

ふるさとの訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく 石川啄木

5日間にわたって行う家庭訪問も半ばにさしかかった頃、訪問したある家庭で懐かしい故郷の香りがした。そのお母さんの言葉の抑揚、アクセントに私の故郷福岡の風を感じたからだ。思い切って尋ねてみると、「筑豊の直方から引っ越してきました」とのこと。「直方ですか。私は中間に住んでいたんですよ」と返す。確かに、私は4才までトイレも風呂もない炭坑住宅に住んでいたという。その後、遠賀川のほとりに移り、保育園の年長の年に福岡市に引っ越してきた。幼稚園に通い出した記憶はあるものの卒園式にでた覚えがない。どうやら私は幼稚園中退だったようだ。学費が払えなくなったことがその理由らしい。私の周りの友達も低所得者が多く、私と同じような境遇の子どもは結構いた。

働けど働けどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る 石川啄木

これは、実は正確な表現ではない。石川啄木はそれまでの短歌の表現スタイルを1行から3行の分かち書きへと変革したのだ。ある国語の研究会で上記の啄木の句を「3行に分かち書きしなさい」という課題が出た。私は何の疑問も持たずに次のように書いた。

働けど働けど
わが暮らし楽にならざり
じっと手を見る 

他の多くの参加者もみな一様にこう書いたに違いない。また、実際に6年生を担任していた頃、同じような課題を出したが、ほとんどの子どもたちが私と同じように分けた。ところが、実は次のように分かち書くのだそうだ。

働けど
働けどわが暮らし楽にならざり
じっと手を見る

これには思わずうなってしまった。始めの「働けど」の後に一呼吸おいて「働けど」と詠むと何とも言葉に力がこもってくるという不思議な感覚に襲われるのだ。そのとき、初めて言葉が立ち上がってくるという体験ができたのだった。

この多くの庶民の声を代弁したような啄木の短歌のように、戦前は、富める者は更に肥え太り、貧しい者は更に貧しくなるという社会構造ではなかったか。戦後、農地解放、財閥解体などを経て、国民一人一人に「最低限度の生活を営む権利」が与えられた。その流れの中で登場した教育基本法は、教育の機会均等の原則を貫いた。教育の機会均等で世界の先進国からも評価が高いのが、日本全国どこに住んでも同じレベルの教育が受けられ、更に義務教育を無償にするという点である。その日本の制度をお手本にして世界経済開発機構(OECD)が行う児童生徒到達度評価(PISA)で世界一をとったのがフィンランドである。フィンランドでは、それまでは、いわゆる「格差」により児童生徒をランク付け(競争)することで子どもの力が伸びると考えた。しかし、そのやり方で行き詰まった教育関係者が目をつけたのが、教育基本法を始めとする「平等」の理念をもち高いレベルを持った日本の教育だったのだ。そのおかげで私は低所得(年収180万円程度)家庭で育ったにもかかわらず、大学まで行くことができたのだ。今頃になって、日本の教育制度に感謝したいと思うようになれたのは少々残念だが。だから、私は学年始め子どもたちに教科書を配る時に話しをする。なぜ、教科書がただになったのかを。高知県のある地方から始まった父母の運動が全国に広まり行政を動かした。お金がなくて教科書が買えずに悔しい思いをしてきた子どもたちの想いがこの教科書には詰まっていると。

あれっ、何で教科書の話になったのだろう。またいつもの悪い癖が出た。これは釣り日記だった。もとはといえば方言から始まった話。そんな故郷を思う気持ちを持ちながら5月3日から4日までの2日間福岡に帰省した。福岡では博多どんたくの真っ最中。初日である3日は、110万人の人手でにぎわったという。


守備範囲が結構広い?博多どんたくパレード〜明治通り〜

福岡市中心部のどんたく広場を中心とし、市内の様々な場所でステージなどのイベントが催される。特によく知られているのが、市内のメインストリートを歩行者天国にして、500程の各種企業、団体がそれぞれの特徴を生かした衣装に身を包み練り歩くパレードである。そのパレードでは面白いものがいくつもあった。まずは、福岡市教育委員会とPTAとが一体となった「早寝・早起き・朝ごはん」だ。やはりどこでも課題は同じだなあと苦笑していると、今度は、その対極に位置する団体がやってきた。博多アカデミーのたくましくしなやかなMr.レディーたちだ。倫理規準すれすれの衣装で笑顔を振りまいている。自動車に取り付けられた横断幕には、「今宵は中州でお待ちしております」と記されていた。この方々は、このパレードの終了後仕事なのだろうか。おそれいりました。どんたくパレードって結構守備範囲が広いねと思ってしまったのだった。


九州国立博物館 九州もすてたもんではありませんなあ

中州といえば、これも懐かしい響きがする。小学校6年生の時だった。今は亡き父親が競艇で大穴を当てたと喜んで、私を中州のキャバレーに連れて行ってくれたことを思い出す。小学校時代にどんな授業があったかはまったく覚えていないのに、このことだけは今でも鮮明に覚えている。店の中にはいると2階へ案内された。青色のドレスを着たお姉さんが接客にやってくる。刺激が強すぎたのだろう。私はいきなり鼻血を出してそのお姉さんを迎えてしまったのだ。2階から見下ろすとメインステージがあり、そこで宍戸ジョウさんがショーをやっていた。(そっくりさんかも)中州といえば、屋台。天神の中央郵便局前の屋台へよく連れて行ってもらったものだ。また、懐かしさのついでに私は家の近くにある箱崎のパチンコ店にも小学生の頃から父親に連れられて出入りしていた。得意技は匍匐(ほふく)前進だ。他のおじさんが落とした玉を床をはいまわりながら集めていく。そして、父の受け皿に集めた玉を入れていくのだ。ご褒美に、パチンコがおわると、隣にあるラーメン屋で腹ごしらえ。その時のラーメンの味は忘れられない。獣くさいスープにその臭いを消すためなのか大量の白ごまが投入されていた。うすいペラペラのチャーシューに元気のないキクラゲ。しかし、うまかった。汁まで残さず食べた。なつかしさを求めて博多ラーメンを食べる機会がしばしばあるが、がっかりすることが多い。今のラーメンには獣臭さがない。客商売だからしかたがないけど私には何かものたらないね。

しかし、九州もすてたもんではありませんなあというところがある。太宰府にある九州国立博物館である。今は琉球の歴史、民俗の特別展示が行われている。メインは太古の歴史から外国との接点を持ち続け、日本の狩猟、稲作、その他工芸技術の最先端をいっていた九州の歴史、民俗の展示だ。驚いたのは、狩猟生活のコーナーでその当時の人間が作った釣り鈎だ。動物の骨で作った釣り鈎にはすでに刺さったら抜けにくくする返し(アシストバーム)が施されている。我々のご先祖様は、狩猟生活の時すでに釣り具メーカーが研究している部分を発明していたということなる。

おっといけねえ、また釣りと関係ない話だ。本題に移そう。今回の連休では、ファミリーフィッシングを計画した。日頃迷惑を掛けている家族への罪滅ぼしと、釣りをしたいという我が願いも両方満たすためには船釣りしかない。4日までは福岡の母親に孫を会わせ楽しんだ後、その日に別府へ入り、翌5日に豊予海峡へ関アジを釣りに行くことにした。船はインターネットで探した。するとあるある。ネットからたくさんの遊漁船があることが分かった。関アジ釣りの人気ぶりが伺える。その数ある船の中で選んだのは、別府楠港から出るべっぷ丸だ。釣果よりも快適にファミリーフィシングをサポートしてくれるという点で選んだ。早速PCメールで予約完了。3月中に予約したので何とかセーフ。


お世話になったべっぷ丸さん 別府 楠港

大分県佐賀関半島の沖合は、四国の佐多岬とともに瀬戸内海の入り口を形成し、大変潮の流れの速い海域で、別名「速級(はやすい)瀬戸」とも呼ばれている。この急流で育ったアジは身が締まって大変美味しく、中でも一本釣りされたものは「関アジ」と呼ばれ、1本4000円もするほどのブランド魚としてその名を全国にとどろかせている。今回私たちがトライするアジは、佐賀関よりやや北の位置にある豊予海峡での釣りなので、正確には「関アジ」とは言えないかもしれないが、同じような環境にいるアジだから本物の関アジに近いに違いない。船酔いは心配だが、ぜひとも豊の国の恵みをいただきたいものだ。

5月5日(金)こどもの日。潮回りは小潮。天気予報はこの数年経験したことがないような5月2日から5日まで全国的に見事な晴れマーク。潮回りは小さくて気になるが、期待通りの釣り日和のようだ。前日の午後5時頃、べっぷ丸より連絡が入る。「鎌田さんですか。午前5時集合です。」通常午後7時に連絡が入るのだが、この時間にくるということは明日は凪だろう。こどもの日だが、どうも大人が子どもになる日といった方が良さそうだ。

午前4時起床。準備をして、コンビニで買い物をし、午前5時前に楠港に到着。船長にあいさつをした後、クーラーを乗せる。この船は、釣り座の決め方は早い者勝ちで、希望する釣り座にクーラーを置くことになっている。船に乗り込むと右横最後部と左横最後部が空いていたのでそこを釣り座とすることにした。船釣りは、平均年齢が高いおっさんが中心だが、今回は、連休ということもあり、私ら家族も含め、カップルや熟年夫婦もいた。地元の方は、いないようで、私らは熊本、その他、福岡、神奈川、名古屋と様々な地域からの参加となった。

福岡からおこしの熟年夫婦のおばちゃんが、昨日の状況を教えてくれた。「昨日はね、50匹釣ったよ。私は17匹だったけど、この人(夫)は30匹以上。でも、2枚潮でむずかしかったね。」すかさず、名古屋からのカップルの男性の方が、「私はここは初めてなんですけど、どうしたらいいですか?」と会話に加わってきた。すると、この中ではもっとも上手そうなおじさんが、「わからんときは、船の人に聞くのが一番だよ。釣り方を教えてもらえるから。」と答えていた。どうやら、ここでは、乗務員さんにいろいろ釣り方をレクチャーしてもらった方が釣れるらしい。


さあ釣るぞ 息子は釣りよりまず腹ごしらえ

午前5時半になり、全員揃ったので、めでたく出航。船は、べた凪の別府湾を気持ちよく滑っていった。船出して1時間が経過。佐賀関半島と国東半島の間を進んでいる。別府湾の出口付近になると波が出てきた。沖に出たなと実感できる海況になった。前方におびただしい数の船が見えたところでエンジンがスローとなった。どうやらここがポイントらしい。


最初のポイント かなりの数の船がおりました

いよいよ釣りだ。さて、私が数ある遊漁船の中で別府丸を選んだのには訳がある。それは、釣り座に座席がついている。一人一人手を洗うための海水の供給が施されている。一人一人に生け簀がついている。その上、釣れた魚を全部神経じめしてくれるという。これほど徹底したサービスを行ってくれる遊漁船はそうないのではないか。

そう考えていると、新人乗務員のお兄さんが、釣り方を詳しく教えてくれた。120号のおもり付きのかごに餌の冷凍アミを直方体の形に切り詰める。堅いまま入れるのは、その方が餌が一気に出てしまわないのでいいそうだ。餌を入れたかごを落として底をとったら5メートルほど巻き上げて、3回ほどシャクって再び底へ落としてアタリを待つ。20秒ほど待ってアタリが出なければ、同じ動作を繰り返す。それを3セットほどすると餌がなくなるので、巻き上げて再び餌を入れて落とす。これを繰り返すわけだ。

アタリがあると一気に手動で強く合わせを入れるとアジの口が切れてしまうので注意をするようにという最後のアドバイスを聞いて、船長の「では始めてください。」の合図で釣り始めた。「魚が寄るまで時間が多少かかりますが、魚が寄ればどんどん釣れますよ。」と安心する一言を聞きながらおもりかごを落とした。水深は68メートル。言われた動作を繰り返した。しかし、アタリがない。1時間が経過したが、誰の竿にも反応が出なかった。「潮が動かんごたるなあ」一番上手そうな船最後部のおじさんがつぶやく。

時間は午前8時前、まだまだ時合い到来とはならないのかなとふと竿先を見つめると、明らかに魚の反応らしき押さえ込みが。あわてずに電動リールのスイッチを入れる。魚が上がってくる。時折竿先をぐぐっと引いている。間違いない魚がついているようだ。魚をかけたことに気づいてくれた乗務員の兄ちゃんが、「竿をたててください。でも魚を水面につけたままにしておいてください。」魚を浮かせると慣れた動作で玉網ですくってくれた。「ありがとう。」元気な35cmの中型サイズの関アジ。「はい、お父さん釣れました。」と兄ちゃんは声を掛けてくれた。「はい、今釣れましたよ。」と船長がマイクで釣り客を鼓舞している。のではなく、誰かが当たったということは、群れがいると言うことなので、すぐに竿をシャクって仕掛けをアピールしなさいということらしい。


小振りですがうれしい1匹

いい気分で釣りを続けるが、これから続くと思いきや、アタリは遠のいていった。船の最後部の釣り座の右側のおじさんがアジ3匹とホウボウ2匹を釣ったのが目立った釣果。最後部の左側の本命らしきおじさんにはまったくあたりさえなかった。この近辺に3回ほど移動してみたもののますます魚からの反応がなく、私がもう1匹ゲットした後、やっとで妻の竿にもアタリがきて1匹目を釣ったが、「15分ほど走りますので、仕掛けをあげて」の合図でこの最初のポイントに見切りをつけることになった。


うちの母ちゃんもやっとで1匹ゲット

キャビン内に入って、みんなで状況を交換し合った。船最後部の本命2人は、右の方がホウボウ2匹にアジ3匹。左の一番ベテランの方が何とボウズ。昨日50匹釣ったという船最前部に釣り座を構えた老夫婦は、おばちゃんが3匹釣ったが、おじちゃんは何と今のところボウズ。名古屋からのカップルの方は女性の方が2匹、男性の方が3匹くらいか。はるばる神奈川から来られた方もボウズ。おそらくこの状況を予想できたものは誰もいなかっただろう。「おれは、こんなに下手だったんだろうか。」一番のベテラン釣り師の嘆き節が始まった。船長が携帯で連絡を取り合っている。その内容から、今日は何処もつれていないことが分かった。「潮が動いとらんね。」と行きの船内では明るかったおばちゃんの表情も曇りがちだった。

関アジ釣りは、この時期にいわゆる「乗っ込み」を迎えるため、潮に関係なく爆釣するのが例年のパターンだそうだが、今日のような食いの悪さは珍しいらしい。磯釣りでは、この時点でだめならたいていの場合一日だめだが、船釣りは船長が釣れそうなポイントを魚探で探りながらの釣りなので、あきらめる必要はない。まだまだチャンスはあるはず。そう信じて次なるポイントへ期待を込めることにした。


どうなってんだよ 昨日は入れ食いだったのに

20分ほど走って、更に沖へと進んだ。「ここは昨日釣れたところに似てますね」と乗務員の兄ちゃんが声を掛けてくる。ここも結構釣れるポイントらしい。午前10時になっていた。仕掛けを入れて釣り再開。早速5投ほどした後に、アジのアタリをとらえ釣り上げたこれでやっと3匹目。嘆いていたおじさんもこの状況でやっとで3匹のアジをゲット。潮がよくないのか、かまぼこの材料であるエソが周りで釣れだした。ここも3回ほど小刻みにポイントを変えるが前回のポイントより更に魚からの反応がなかった。

陽が高くなった。東から風が吹き、海が時化始めた。船の揺れが魚の食いに影響するかどうか知らないが、波が高くなるにつれ魚の反応は消えていった。時計も見ると午後も1時を過ぎていた。納竿時間は何時か知らないが、どうやら年貢の納め時のようだ。初めての関アジ釣りで見事な惨敗を喰らうとは。うちの母ちゃんも息子もとうにあきらめてキャビン内でふて寝していた。(その間に乗務員のにいちゃんが2匹釣ってくれていたことも気づかずに。)

「仕掛けをあげて、最後にまた走ります。船の中に入っておいてください。」船長のマイクの声も心なしか元気がない。これで最後の場所変えだろう。船は時化気味の海を今度は別府湾内へと走った。この時点でボウズは2人。一体魚に何が起こったというのだ。みな一様に黙り込んでいる。釣れないと疲れは倍加される。ポイント移動の時間がとても長く感じられた。

最後のポイントは、最初のポイントよりは更に湾近いところのように感じた。午後も2時半になっていた。さあ、せっかく別府まで来たんだもの最後まであきらめないぞ。再び闘志を奮い立たせて仕掛けを打ち返した。「はい、良い反応が入ってるよ。シャクって」と船長の指示。これまでのポイントでは、この船長の指示があっても、魚からの反応は単発ですぐに裏切られてきたのだが、このポイントは違う。次々にアタリがあり、ついに眠れるアジが目覚めたか、入れ食いモードに突入した。船上のすべての人々に笑顔が戻った。午後3時過ぎに餌がなくなり、ようやく納竿となった。


乗務員さんが魚をすべて神経じめしてくれます


本日の釣果 関アジ2人で19本

陸に上がって船長と話した。今回は食いが悪かったけど、今度はもっと良いときに来てください。」神経じめしてもらった魚をクーラーに入れ、氷を入れてもらった。やっぱり、自然相手だ。船釣りでも釣れないときもあるんだね。でも、十分に釣りを家族で楽しめたし、納得の釣りができたことをべっぷ丸の方々に感謝したいと思う。


午後4時帰港 お疲れ様でした あれ クーラーの中撮れてないし

べっぷ丸HP釣果情報より
5月5日 ???何故か?食いが立たず苦戦しました!
今日は潮がほとんど動かない影響か?反応が悪く前半はなかなか食いが立たず苦戦しましたが、後半やっと入れ食いとなり納竿する事となりました!
アジ(大型〜特大 5〜20匹)

ちなみに前日(5月4日)は?

5月4日 アジ大漁!絶好調です!
昨日と違いべた凪の最高の釣り日和となり釣り始めると一投目からアタリがあり徐々に食いが上向き入れ食い状態となり納竿までほとんど食いが止まることなく順調に釣れ続き大漁となり納竿となりました!
アジ(中型〜特大 25匹〜45匹) サバ(中型 2〜6匹) ホウボウ(1匹)

やっぱり、「昨日までは・・・」だったか。


本日の料理

関アジの造り
関アジのにぎり寿司
関アジのサンガ焼き
関アジの唐揚げ
関アジの潮汁

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